風鳴き山の神




 みつが村を離れ、遠くの町に嫁にもらわれていくという日、太兵衛は独り、鉄砲をかついで風鳴き山に入っていった。その日の風鳴き山の上には、なにやら今にも嵐になりそうな真っ黒な雲が立ち上がっていたが、太兵衛はそれにはいっさいかまわず、ずんずんと獣道を登っていった。
 ――みつ。
 無口で無骨な太兵衛は人付き合いが得意でない。そのため、村ではみつだけが彼と親しく口を聞いてくれる娘だった。太兵衛は幼いころから、いつかはみつと二人で山に住もうと思っていた。
 しかし、それも昨日まででもう終わりだ。家も財産もなく、取り柄といえば鉄砲の腕前だけ。そんな自分では、みつに何もしてやれない。だから、みつが町に行くという話が持ち上がった時にも、太兵衛は何かをいったりはしなかった。が、それでも明日からの生活のことを思うと、何やら無性に獣を撃ちたくなり、それでこうして山に入ってきてしまったのである。
 ――山の神よ。みつは嫁に行くぞ。俺とおまえとでみつを争うのも、もうしまいだなあ。
 くるみ林を通り抜けながら、太兵衛は心の中で山の神に話し掛けた。
 ――みつはよく、俺の嫁になるかおまえの嫁になるかで、俺を困らせたもんだ。俺に甲斐性がなければ、山の神のふところに住むぞ、といってな。
 「あははは、太兵衛。あたしを嫁に欲しかったら、あたしに鹿を取ってきておくれ。猪の牙を取ってきておくれ。山の神の酒瓶を取ってきておくれ」
 そう、みつは山の好きな少女であった。大きくなったら、ずっと山に住みたいといっていた。尾根で鹿を追い掛けたり、谷でゆりの花をつんだり、夜にはたき火のそばで星を数えたり……そうしてしまいには、てっぺんの雪の中にうずめて欲しいのだと――。
 「みつ。俺はおまえが好きだったのじゃぞ。なんで、町になぞ行ってしまう。おまえの大好きな山から、あんだけ離れているところでねえか」
 太兵衛はそばの岩に腰を下ろして、鉄砲に弾丸を込めはじめた。父親の代から受け継いだ火縄銃だったが、今となってはこれだけが唯一の親友のような気がする。いつかは自分もみつ以外の嫁を取ることがあるかも知れないが、しかしその女に、この銃やみつ以上の愛着が湧くとはとても思えなかった。
 「さて、と」
 鹿のいる尾根に行くには、あと半里もあるだろうか。それも、山に慣れた太兵衛の足なら、あっという間だ。太兵衛は銃をかついで、立ち上がった。
 冷たい風がヒョウヒョウと音をたてて吹きすぎていく。村人たちが、「あれは山の神が泣いているのだ」と噂するその風音も、今日はいつにもまして悲しそうに聞こえた。風鳴き山は、風泣き山でもあるのだ。
 ――山の神よ。おまえもさみしいんだな。
 太兵衛は独り、そっとつぶやいた。すると風は、まるで「ああ、そのとおりじゃ。わしも一緒に泣いてやるぞ」とでもいいたげに、さらにはげしく木をゆさぶった。
 いつか太兵衛は、鹿の尾根についていた。さっそく火縄に点火して、獲物はないかと辺りを見回す。彼が今いるところは、ちょうど崖から村のほうを見下ろす位置であったが、その日は低い霧が立ち込めており、下界は白く霞んでいた。
 と――。
 何か大きな物が、向こうの木の間で動いた。鹿だ。
 獲物は親子連れだった。太兵衛がいることにはまったく気がつかず、三頭で一心に草を食んでいる。太兵衛は火縄の口火が付いていることを確かめると、ようく狙いを定めて引き金をひいた。
 一瞬風の音が止み、銃声が辺りにこだました。
 「よしっ!」
 弾は見事に命中し、一番大きな親鹿がどうと倒れる。同時に、二頭の子供達はパッとその場から逃げていった。
 「大物だぞ」
 太兵衛は銃をかついで走り出す。あれなら、数日分の食糧が確保できるだろう。
 ――みつ、みつ、やったぞ。大物だ。いま、持っていってやるからな。
 走りながら太兵衛は、ふとそんなことを考えている自分に気がつき、思わず苦笑いをして立ち止まった。長年の癖というのは、なかなか抜けないものだ。理性ではわかっていても、つい、意味のないことを思ってしまう。
 ――安心しろ、みつ。今のは冗談だ。俺はおまえがいなくても、一人でやっていけるからな。
 思ったとおり、鹿は太兵衛一人ではどうにもならないくらいの、大きなやつだった。太兵衛は腰にぶらさげた山刀をはずすと、まずそれで太股の肉を切り取った。これは山の神の分だ。縄でしばって、そばの木につりさげる。
 「さあ、いつものとおり、これを受け取ってくれ。今日から、みつの分はいらないからな」
 次に、脇腹と前足を切り取る。それらをしばって肩にかつぐようにすると、それだけで持てる荷物は一杯になってしまった。
 「しかたない。残りはいま食ってしまって、あとは狼にでもくれてやるか」
 懐中から火打石を出して、たき火を作る。鹿の体から大きな肉片を切り取ると、それを木の枝に刺して火の上にかけた。間もなく辺りに、肉の焼けるうまそうな匂いが漂いはじめた。
 ――みつ。
 いまごろ彼女は、祝言のごちそうを食べているのだろうか。いやいや、花嫁の身であれば、そんなにガツガツすることは許されまい。だとすれば、あふれんばかりの食い物を前にして、きっと腹を空かしているのだろう。この鹿の肉を見たら、なんというだろう。
 「太兵衛、あたしを嫁に欲しかったら、あたしに鹿を取ってきておくれ」
 山の神よ。これからは俺とおまえと二人だけだ。俺はもうどこにもいかない。おまえと一緒に、鹿の肉を食って暮らそう。
 太兵衛は尾根から下界を見下ろした。霧はいのまにか晴れ、そこから村が一望のもとに見渡せた。
 「小さいなあ、俺の村は。なんで、あんな小さな所に住まなならんのだろう」
 そう。みつもまた、小さな村を嫌って町に行った。太兵衛は山に残り、取ったばかりの獲物を焼いている。これが生活というものだ。
 太兵衛はたき火の上から鹿の肉を取ると、油の乗ったやわらかい身にかじりついた。
 「今日はこれからどうしよう。もう獲物は取ってもせんないし、村に帰ってもつまらんし」
 鹿の肉を食ってしまうと、太兵衛はたき火のそばでごろりと仰向けになった。雲はまだ晴れなかったが、すぐにどうこういうこともなさそうだ。
 「山の神よ。俺はおまえになりたいなあ。おまえは何百年も何千年もここにおって、ずうっと世の中の動きを見てきたんじゃろ。おまえくらいに長生きすれば、たかが女の一人や二人のことで悩まんで済むかも知れんなあ」
 みつよ、みつよ。山の神の想い人のみつよ。
 いつしか太兵衛は、みつのことを考えながら、その場に眠り込んでしまう。そして、夢の中で山の神に出会った。
 「太兵衛、われ、そんなにわしになりたいか」
 山の神は、長い鼻を突き出して真っ赤な顔でそういった。山の神は天狗であった。
 「ああ、なりたいとも。そうしてここから、みつやみつの子供たちをずうっと見ていたい。もしもおまえになれるなら、俺はこの銃とそれを撃つ腕を渡してもかまわねえくらいだ」
 太兵衛はまじめな顔で答えた。すると山の神は、
 「よし、そんならしばらくの間、われとわしとで入れ代わってみよう。わしの見たもの、われも見るがいい。いつもわしに、鹿だの猪だのをわけてくれるお礼だ」
と言って、どこへともなく消えてしまった。
 気がつくと太兵衛は、とほうもなく大きな体で村を見下ろしていた。
 「こりゃ、驚いた。俺の体が、ほんとうに山になっとるぞ」
 そのとおり、太兵衛は風鳴き山になっていた。頭の上に雲をのせ、中腹には深い森、そして、ふもとには小さな村をおいた、みつの大好きだった山に――。
 「太兵衛!」
 誰かが自分を呼ぶ声がする。幼いころのみつの声だ。
 「太兵衛、太兵衛、こっちこう。山の神様に、あたしとあんたとどちらが速いか見てもらうんじゃ」
 「みつ!」
 太兵衛はみつを呼ぼうとした。しかしその声は、ただひょうひょうと吹きすぎる風の音になるだけであった。
 「太兵衛、風鳴き山が泣いとるぞ。まるで、誰かを呼んでいるようじゃ」
 みつは立ち止まって、太兵衛の山を見上げる。太兵衛は、自分の言葉が彼女に伝わらないことに気がついた。今の太兵衛は太兵衛ではない、風鳴き山の神なのだ。
 太兵衛はみつの隣にいる男を見下ろして、ひゅうっと風の息をもらした。それは、もうずっと昔の彼自身の姿であった。
 「みつ!」
 太兵衛――山になっているほうではない、少年のままの彼が叫んだ。
 「はあはあ、みつは速いなあ。俺にはとても追い付けねえ。まるで、天狗が乗り移ったようじゃ」
 「うふふふ。そうだもの。あたしは、山の神の娘じゃもの」
 みつは着物のすそをひるがえして、いたずらっぽく笑った。一瞬のぞいた太ももが、真新しい綿のようにまぶしく、太兵衛の目を射た。
 「太兵衛、太兵衛、のろまの太兵衛。それではあたしは、おまえの嫁にはなれないわ。あたしを嫁にする人は、山の神よりも速くて、山の神よりも強くなくてはいけないのだから」
 みつはようやく追い付いてきた太兵衛に向かって、片目をつぶってそういった。そして、あははは、と笑いながら自分の顔を太兵衛の胸に押し付けた。
 「うそじゃよ、太兵衛。あたしは太兵衛の嫁になる。山の神よりおそくて、山の神より弱くても、あたしはあんたと一緒に暮らす。だから、あたしのために鉄砲のけいこをしておいておくれ。鹿罠のかけ方、覚えておいておくれ。だって、あたしたちは山の中に住むんじゃろう」
 みつは顔を上げて、太兵衛を見つめる。太兵衛はどうしていいかわからずに、黙ってみつの体に手をかけた。
 「太兵衛、どうした。何か言っておくれ」
 みつは不思議そうな顔をして、太兵衛を見上げた。桃のような頬で、細かいうぶ毛が光っていた。
 太兵衛――風鳴き山の目には、知らぬうちに涙があふれはじめていた。それは止まることもなく、ふもとのほうまで流れていった。
 みつよ、みつよ。俺たちは、いつか一緒に山に住む約束をしたな。なんで――なんで、その約束、守ってくれなんだ。俺はおまえが大きくなるのを、ずっとずっと待っていたんだぞ。
 風鳴き山の涙は雨となり、丘にいる二人の体を濡らしはじめる。みつは空を見上げて、首をかしげた。
 「太兵衛、雨が降ってきたぞ。風鳴き山がほんとうに泣き出した。やれ、この山は泣き虫じゃのう。さっきまでは、あんなにいい天気じゃったのに」
 みつは少年の太兵衛から体を離すと、またしても天狗のように走り出した。
 「太兵衛、はやくこう。体が濡れる、風邪をひくぞ。太兵衛、太兵衛、のろまの太兵衛」
 二人が行ってしまったあとも、山はそのまましばらく泣きつづけていた。まるで空の水のすべてを使い切ってしまうかのような勢いだったが、それも長くは続かず、やがて雨が上がり晴れ間がのぞいた。
 いつしか歳月は流れ、風鳴き山に何度目かの春が訪れた。
 「太兵衛!」
 再び、みつの声が聞こえる。
 「太兵衛!」
 前のときと、おんなじだ。そう思って、風鳴き山は一心に耳を澄ませたが、それはもう、だいぶ大人になったみつの声だった。
 やがて、十四になったばかりの、太兵衛とみつが登ってくる。
 「太兵衛、待ってくれ。あたしはあんたみたいに速くないのじゃから。あんたは男で、あたしは女じゃ」
 「みつ。そんなこというて、山の神の娘の名が泣くぞ。子供の時分には、おまえは天狗のように速かったろうに」
 「はあはあ、太兵衛。速くなったのう。もう、あたしはおまえにかなわない。やはり太兵衛は男じゃの。それなら山の神と戦っても、充分に勝てるにちがいない」
 「みつ」
 「さあ、約束じゃ。あたしをやろう。あたしは太兵衛の嫁になる。山の神よりも速くて、山の神よりも強い太兵衛の嫁に」
 みつは立ち止まって、太兵衛の肩に頭をもたせかけた。太兵衛はやさしく、その髪をなでてやった。
 二人はそのまま座り込む。太兵衛はみつの体に手をかけて、そばの草むらに横たわらせたが、みつはそれを右手で弱々しく押し返した。
 「だめじゃ、太兵衛。風鳴き山が見ておる」
 「かまわん。おまえは山の娘じゃないか。なんの遠慮があるものか」
 そうだ、みつよ。おまえは山の娘じゃ。山を離れて、生きていけるものでねえ。おまえの家はここなんじゃ。
 太兵衛は、みつの唇にそっと自分の唇を重ねた。
 それからも風鳴き山は、ずっと太兵衛とみつを見守って暮らした。二人は始終山の中に入ってきたが、年をおうごとに太兵衛は太くたくましく、みつは丸くたおやかになっていった。子供だった二人は、すっかり大人になっていたのである。
 そして――。
 いつしか太兵衛は鉄砲をかつぐようになった。同時にそのころから、みつが山に姿を見せる回数が減りはじめる。ふもとの村で女の仕事をしながら、太兵衛の帰りを待つようになったのだ。太兵衛とみつは、もうすっかりと夫婦になる約束を交わしていた。
 風鳴き山は、うとうとと眠って暮らすことが多くなった。たまに目を覚ますと、太兵衛が必死に鹿や猪を追い掛けている姿が目に入ったが、しかし、みつの顔だけはまったく見ることはなかった。
 そんなある日のこと――。
 ふと風鳴き山は、久し振りのみつの声に、はっと目を覚ました。山の神の娘が、再びここにやってきたのだ。しかしその声はなぜかすっかりとかすれており、あまつさえ、一緒にいるはずの太兵衛の姿が、どこを探しても目に入らなかった。
 「風鳴き山よ」
 みつが言った。
 「聞いておくれ。あたしは迷っているんじゃ」
 彼女は傍らの石に腰を下ろして、山を見上げた。
 「風鳴き山よ。町の長者の息子が、あたしを嫁に欲しいといってきた。あたしは太兵衛が好きなんじゃが、長者の息子はあたしが嫁に行けば、おとうとおかあを一緒に町に呼んでくれるというんじゃ。おとうもおかあも、その話にはひどく乗り気でいる。二人とも、山の暮らしには飽き飽きしとるから。年を取って体も痛いし、ここには良い医者様もおらんし。でも、最後の最後にはあたしが決めていいといってくれた。あたしはどうしたらいいんじゃろう。あたしの想いを通して太兵衛の嫁になるか、おとうとおかあのために町に住むか……。教えておくれ、風鳴き山よ。あたしはどちらに行けばいいのか」
 みつは石から下りて、そばの草むらに身を投げ出した。そして、体を一杯に広げて、大地を抱きしめた。
 「風鳴き山よ。あたしはおまえが大好きだ。でもそれは、太兵衛がいたからじゃ。あたしが本当に好きなのは、太兵衛なんじゃ」
 風鳴き山は、自分の表面にみつの涙がしみこんでくるのを感じた。それは、妙に苦い味のする涙だった。
 「太兵衛、太兵衛、あたしはどうしたらいい。おとうもおかあも、あたしが町に行くといいだすのを待っている。あたしは、あの二人も大好きだ。なんじょう、裏切ることができるものではない」
 みつはそのまましばらく泣きつづけていた。風鳴き山は、彼女の涙をそっと吸い取ってやった。涙はさきほどと同じく苦い味がしたが、それは自分だけの意志で生涯の伴侶を決める自由のない、その時代の女の悲しみの味であった。
 それでも、涙はいつか乾くものである。みつは泣き疲れると、やがてすっくと立ち上がった。そして、山の大地をそっと撫でて言った。
 「風鳴き山よ。あたしはもしかしたら、二度とここに来ることはないかも知れない。でも、覚えておいておくれ。いつかあたしに子供ができて、その子供にも息子か娘が生まれて、そのまた子供の子供ができて、何年かかるかわからないけど、そのうちの誰かがここに来ることもあるじゃろう。そのときには、もしかしたら女がこのようなことで、泣かなくてすむ時になっているかも知れない。風鳴き山よ。それまで長生きして欲しい。そして、あたしのことを伝えておくれ。山の神の娘みつは、それでも自分の意志で生きたのじゃと」
 このときを最後に、みつは二度と山に現れなくなる。あとには孤独な太兵衛が残されたが、彼もまた、生涯嫁を取ることはなかった。いつしかその太兵衛も死に、みつのことを覚えている者は、誰もいなくなってしまう。そして、何年何十年何百年もの長い年月が過ぎていった。
 風鳴き山は、ずっと独りで生きつづけた。もはや太兵衛とみつのことすら、思い出すことはない。ときには誰かの声に目を覚ますこともあったが、それは鉄砲をかついだ猟師ではなく、風鳴き山の泣き声もただの風の音になっていった。
 時が移り変わり……。
 風鳴き山の空に鉄の鳥が飛び、人々はこの惑星から外に出ようとしはじめていた。
 「太兵衛……」
 風鳴き山は、懐かしいみつの声に目を覚ました。まさか、みつが生きているはずもないのだが、それは確かに、あの山の娘の声であった。
 「太兵衛、と書いてあるわ」
 「ほんとだ」
 声の主のそばにいる男が、彼女の指さした石の塚を見て答える。ああ、やはりこれはみつではない。ただの登山者のカップルだ。
 「昔、ここに太兵衛って人が住んでいたのね」
 「うん、そうらしい」
 「でも、誰がたてたのかしら、このお墓」
 「ええと、ちょっと待ってくれ。ああ、ここに書いてある。『みつ、祈願』。奥さんかな」
 「それなら、その人のお墓はどこにあるのよ。奥さんなら、そばに一緒にうめられてるはずじゃない」
 「あ、そうか。不思議だな。よくわからないや」
 そのみつによく似た娘はちょっと首をかしげたが、やがてかたわらにしゃがむと、そばに咲いている花を摘みはじめた。
 「あれ、何をするんだい」
 「そなえるのよ。誰もお参りしてくれないんじゃ、さびしいでしょう。あたし、なんだかここに埋まっている人の名前が、とても懐かしいの。ずっと昔に、どこかで会ったような気がして。それに、おばあちゃんから聞いたんだけど、ここらへんはあたしの先祖の土地だったこともあるんですって。もしかしたら、この太兵衛って人も、あたしとなんか関係あるかも知れないじゃない」
 「ふうん」
 言われて男は、自分も一緒になって花をそなえだした。二人はしばらくの間、わき目もふらずに一心に作業を続けた。
 やがて、男のほうが先に立ち上がる。
 「さ、これでよし」
 「手伝ってくれてありがとう。じゃ、行きましょうか」
 「しかし、新婚旅行に外国じゃなくて、こんな山に来たいなんて、君も変わってるなあ」
 「だって、それがいいんでしょう」
 「ああ、それがいいんだ」
 二人は手をつなぐと、そのまま尾根のほうに向かって登り出した。
 ――いつか、女だけが泣かなくてすむ時代が来るかも知れない。
 あのときの、みつの言葉だ。では、今がその時なのだろうか。わしはそれまで生きつづけることができたのか。
 二人を見送りながら、風鳴き山はそっとそう思った。待ちつづけていた甲斐があったのだ。これでみつとの約束を果たすことができた。もう、いつ死んでもかまわない。
 ――どうじゃな、太兵衛。
 ふと、彼の耳にどこかで聞いたことのある声がした。
 ――満足したかな。あれが、おまえたちの世の中の「未来」というものだ。
 誰だ、おまえは。
 ――わしじゃよ。山の神だ。そろそろ、交替してもらいたくてな。おまえももとの場所に返してやろう。
 では?
 ――そのとおり。あの鹿のいる尾根にだ。そうして、人間としての一生を全うするがよい。
 あ、ちょっと待ってくれ! 俺はまだ――。
 気がつくと、太兵衛はもとの尾根に一人でポツンと立っているのだった。横のたき火は、今にも消えいらんばかりにチョロチョロと燃えている。いったい、あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。太兵衛は、辺りの空気にそこはかとない、水の匂いがまじっていることに気がついた。
 「雨になるな。尾根の通り雨――風鳴き山の涙か」
 いつまでもこうしてはいられない。太兵衛は獲物の包みと鉄砲を肩にかついだ。
 ――風鳴き山の神よ。もう、俺の気持ちがわかるのは、おまえだけだ。おまえは、俺のただひとりの友達になってしまった。だから、俺は生涯ここを離れない。何年何十年たってもここに住んで、おまえに鹿の肉をささげよう。そのかわり、みつとの約束、きっと守ってくれ。みつを守ってやってくれ。
 尾根を下りながら、太兵衛はさきほどまで自分自身であった山の峰を、力強くふりあおぐ。とたんに、頂上のほうからどっと強い風が吹き下ろして、太兵衛の耳をたたいた。それは太兵衛に向かって、こう怒鳴っているように聞こえた。
 「約束しよう、太兵衛。約束しようぞ!」
 ああ、やはり山の神は俺の友達なのだな。
 ふと唇に浮かんだ微笑をおさえながら、その声を後ろに聞きつつ、太兵衛は山を降りていった。





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