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何故なんだろうと思う。私は特定の宗教は信じていない。にもかかわらず、である。
お断りしておくが、信じないとは否定するという意味ではない。私は無神論も信じていない。そういった物の存在は科学や観察の守備範囲外なのだから、「いるかいないか判らない」といってそっとしておくしかない。
さて、ただ少なくとも「信じてはいないが、仮に神がいたとしても我々には手を出さないでいて欲しい」と願っている時、神社仏閣は、何かそういった造物主の手から人間を守ってくれそうな気がするのだ。これは思想的には、造物主が我々にかかわり続けているという見方に対して、そうでない世界観もあり得る、ということだからである。それ故、旅行に行っても結構そういった施設に立ち寄っている。
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とも御朱印を頂いた時にはきちんとお参りをするようにまでなった。礼は弁えなくてはなるまい。後にゴジラの御朱印帳も手に入れ、仏教の寺に行った時はそちらを預けている。シン・ゴジラの御朱印、欲しかったなあ。でも、ところで、御朱印を転売する向きもあるようだが、そんな私でもこれはどうかと思う。神社側から「御朱印はスタンプラリーではない」との言葉があるが、これは集合論的には正しい。何の話かというと、もしかしたらと思って検索してみたら、実はスタンプラリーの起源とは室町時代の御朱印集めにあったらしいのだ。何のことはない、「御朱印帳はスタンプラリーではない」が「スタンプラリーは御朱印帳だった」のである(人間は哺乳類だが、哺乳類は人間ではない)。赤の他人に集めてもらったスタンプラリーをお金で買っても仕方ないだろう。もちろん何にどういった価値を見出すかは自由だとしても、やはりあれは、自分でお参りしながらこつこつと集めるものだ。その過程の楽しさこそが御利益であり、価値なのだと思う。
さて、これを書いている今、世の中はコロナウィルスにあえいでいる。苦しい時の神頼みは良くないが、人事を尽くしたら天命を待つしかあるまい。いや、むしろ人事を尽くす為の
皮肉なことに、そのウィルスが感染するのを防ぐ為の祭がウィルス故に制限されているが、致し方あるまい。とりあえずは、アルコール消毒やマスクを着けての外出をしながら、自宅の神棚に手を合わせる日々を送っている。何よりもこの、御朱印という物がある日本が好きなのだ。