大長編が多過ぎる


 どうして、最近のSF小説はこう長くなってしまったのだろう。これを書いている宇宙暦35年8月現在、SFは冬を脱したという話は未だ聞かず、そもそも創作出版界全体が明るくはないらしい。その理由の一つとして、「物語の大長編化」が挙げられると思うのだがどうだろうか。

 SF――はあまりベストセラーにならないのでとりあえず脇に置くとして、それ以外の分野も大長編の花盛りだ。「ハリー・ポッター」は言うに及ばす、「ワンピース」、「ナルト」など、連載が始まった時点で、もうこれは大長編になるな、と予想されてしまう。案の定、一つ一つのエピソードはとにかく細かく細かく描かれ、登場人物の人数だけがどんどん増えて、話の本筋はちっとも進まない。開始時にいくらインパクトがあったとしても、そのテンションをあんなに長く保ち続けるのが、そもそも可能なのだろうか。
 この傾向が漫画で如実なのは、仕方がないかも知れない。漫画はキャラクター主導型のものが向いているので、どうしても一度作り出した主人公達を長く使いたくなるものだからだ。しかし、「こちら亀有区」や「ゴルゴ13」などの時間的に固定したままでも話が成立するもの(こういうのは「長編」とは言わないのかも知れないなあ。「サザエさん」を大長編と呼ぶのは、どうも抵抗がある。「長い」のではなく、「多い」と言うべきだ)と違い、「ワンピース」や「ナルト」は、きちんとした時間の流れがあるストーリードラマなのだ。このように主人公たちの成長を描いていくドラマは、「エースをねらえ!」にせよ「あしたのジョー」にせよ「キャンディキャンディ」にせよ、ここまで長くはなかった。

 元来、物語にはそれに見合うサイズと言うものがある。SFについて言えば、「センス・オヴ・ワンダー」なる常に新しいアイディアを模索していかねば手に入らないものが、そんな大長編にそうそう見合うはずもない。「デューン」や「ファウンデーション」などの、ごく一握りの作品だけが、その長さの中にかろうじてセンス・オヴ・ワンダーを保ちえた。その「デューン」にしてからが、やはり「神皇帝」以降、どうも作者の意図がわからなくなってきたし、息子によって書かれている「デューンへの道」シリーズが、話としてのエンターテインメント性は父親を越えていながら、実はその面白さがSF性とあまり関係ないということは記しておく必要がある。そしてまた「デューンへの道」は、「砂の惑星」、「砂漠の救世主」、「砂丘の子供たち」を合わせたよりも更に長い。
 考えてみればすぐわかることだが、「幼年期の終わり」や「百億の昼と千億の夜」を本何冊かの長編にするのは不可能だし、もしも無理にやったとすれば、その価値はどうしても本来と違うものに変貌してしまうだろう。SFオールタイムベストに挙げられる作品のかなりのものが、どう考えても本一冊に納めるべき内容であり、その点から考えても最近の早川SF文庫のいくつかは、見ただけで長過ぎる。いやもう、本の厚さと冊数を見るだけで「新しさ」は期待出来ない(現に、長編を結構読んでいる妻に聞けば、最近のSF長編には、面白いものはあっても新しいものはほとんどないとのことである)ことがわかってしまうのだ。だいたい、もしもあれだけの長さでセンス・オヴ・ワンダーを保ち得ている作品がそんなにたくさんあるのなら、そもそもSFに冬なんか来るまい

 ここのところ、ある程度常連のように星雲賞を取り続けているロバート・J・ソウヤーだが、彼の場合、とりあえずはかつての(冬ではなかった頃の)SFの味を保っているところがある。その理由は、話が本一冊で終わるからだ、と言ったら言い過ぎだろうか。その彼でも「フレームシフト」のように、話が分散した水増しみたいなのもあるのだが、基本的には本一冊できちんと完結する。
 それ以外で私が気に入っている人と言えば、何と言っても小林泰三。そのほとんどが短編の人だし、長編でもそのアイディアは、きちんと本一冊で使い切られている。

 そう、SFとは贅沢なジャンルなのだ。どんなにいいアイディア・新しさを持った作品でも、それに見合った長さと言うものがあり、そこで使い切らねばならない。これは出版社にとってはコストパフォーマンスが悪いという結果につながるのかも知れない。それでも言っておかねばならないのだ。この長編化の傾向がどんどん拡大し、長い物ばかりが出版されるようになれば、SFは衰退すると。いや、もう衰退しているのか?
 この点、日本近代SFのもっとも重要だった一人、星新一氏がショートショートの名手だったことは特筆に価する。それ以外でも第一世代と呼ばれる人たち、矢野徹、小松左京、筒井康孝、豊田有恒、眉村卓などの各氏が、その作品のかなりの部分に短編を置いているのは故なきことではない。「神への長い道」や「パチャカマに落ちる日」のテンションを見よ。あれらの作品の価値は、壮大なアイディアを贅沢に短編で使い切ったからこそ出たのである。あれらを無理に本一冊に引き伸ばしたら、それはやはり全然違う作品になってしまうだろう。
 もちろん、第一世代の人たちは――星さんでさえも――それぞれ長編の名手でもある。しかしそれだとて「無闇に」長かったわけではない。一応長編の部類に入る「幻影の構成」や「幻想の未来」だとて、意味もなく本の冊数を稼いではいない。比較的長い名作である「消滅の光輪」や「さよならジュピター」ですら、最近の早川文庫の平均値より短かったのではなかろうか。
 結局話が長くなると、どうしてもキャラクターの魅力や世界の設定に主導される作品になりがちなので、「センス・オヴ・ワンダー」の魅力は削ぎ落とされることになってしまうのである。もちろんその中での名作はあっても構わないのだが、それがすべてになってしまっては、SFの面白さの一部は確実に失われる。「グインサーガ」には「グインサーガ」の、「ボッコちゃん」には「ボッコちゃん」の栄光がそれぞれにあるのだ。

 そう考えると、やはりSFに大長編は合わないとは言わないまでも、最近のように全体の平均値がどんどん長くなる傾向は、どう考えても賛成出来ない。これは新しい読者にとっては尚更である。SFに慣れていない読者にとって、あれだけの長さを持った文庫しか書店にない状態は敷居が高い以外の何物でもないし、何とか読めたとしてもそれをSFのすべてだと思ってしまうのは不幸ではないか。

 かの「SFバカ本」には、「SFの本質はバカ話だ」とある。至言だと思う。しかしバカ話はバカ話であるが故に、それを何十冊もの長さで書ける作家がそうそういるはずもない。もっと短編作家のいい人が現れないと、SFの春はいつまで経っても訪れまい。早川のSFコンテストの復活が何よりも望まれる所以である。

 とにかく、最近のSFは長過ぎる。私が知らないだけなのかも知れないが――。

宇宙暦35年8月22日)

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