「展覧会の絵」の想い出



 1冊だけ、である。現段階で単行本になったのはこれ1冊、「ゲームブック」と言う一過性の騒ぎの中で出すことの出来た唯一の本、もちろん再版の見込みもない。

 「ゲームブック」に関しての知識はそれほどない。スティーブ・ジャクソンとイアン・リビングストンの「火吹き山の魔法使い」が現代教養文庫から出されたのが、自分の記憶の中での始まりである。本の中に短いパラグラフを並べ、選択肢で先に進める。これだけならあれほどのブームにはならなかっただろう。ジャクソン/リビングストンの優れていた点は、その中に点数と乱数を使ったゲームの「システム」を取り入れたことと、(個人的にはこちらが重要だと思っているが)きちんとした「小説」の要素を盛り込んだことだ。
 これはゲームブックの本質、その成立の根幹に拘る問題である。と言うか、そもそもこの辺りについての自覚がないままに、ただブームに乗って粗製濫造したのが、あのような短期間で衰退してしまった原因なのだと思う。当時はファミリーコンピューターがようやく市民権を得たばかりで、RPGのほとんどはパソコンで走っていた。そんな時に出て来たゲームブックは、それらコンピューターゲームの代わりなのか、テーブルトークのRPGをやる暇がない人のためのものなのか、それとも「変わり種の小説」なのか、そういったことがあまり議論されないままに衰退してしまった。仕方がないとは思うのだが、「小説の変形」としての可能性はまだまだ有り得たとは思うので、少々勿体ないような気はする。
 考えてみれば、あれが単にコンピューターゲームの代わりをしていただけならば、「本物」の方の価格と性能がそこそこのものになってくれば、いずれは廃れて当然である。出版する側の方でも、その点をどう考えていたのだろう。私の考えでは、もう少し文章力や構成力のある新人を育てて、コンピューターゲームとは違った独自の道を行っていれば、あんなに短命で終わらなかったはずなのだが――。どうもこの辺が勘違いをされていたような気がする。現に、ファミコンのゲームに原作を求めた作品が如何に多かったことか。それがもとのゲームより面白ければともかく、自分でメモをとったりする手間が加わっただけでは、すたれて当然である。
 ただ、すべての作品がそうだったと言うわけではない。コンピューターの代わりをするだけではない、ゲームブックが独自の世界を構築してその存在を主張するに至った傑作は確かにあった。今でも覚えているのだが、J.H.ブレナンのアーサー王と円卓の騎士にからめたシリーズなどは、なかなか気に入っていた。軽快な語り口の文章と独自のシステムで、読み物としても結構楽しめる物になっていた。もともとゲームシステムそのものにはそんなに興味がなかったので、要はストーリーが面白ければそれで自分には良かったのだと思う。「展覧会の絵」が出された創元社のシリーズは、さすがにもともと小説の文庫としての老舗だっただけあり、しっかりしたストーリーを背景にしたものが多かった。
 もちろんゲームブックは小説ではない。一直線に一つのストーリーが進行していくのではなく、自分自身が謎を解きながら先に進めていくあの楽しみは、やはり独自の物だ。例えば推理小説を読む上で、犯人がわからない限り先に進めないという仕掛けがある場合を想像して欲しい。ゲームブックがその中にしばしば、ただの選択肢ではなく謎々やパズルの答からパラグラフの番号を見つける仕掛けを入れる由縁である。

 「展覧会の絵」はどういうつもりで書いたんだったかなあ。ああいった本にするからには、もちろん小説の要素は大々的に取り入れたかった。もともと小説の勉強中に受けた話である。ただそれよりも、「仕掛け」と言う言葉が自分には非常に魅力的だった。一つの長編が、物語であることの枠を越えた上での仕掛け、そう、私はムソルグスキーの曲に題材を得た、トリッキーな長編が書きたかったのだ。
 オリジナルのピアノ曲の「展覧会の絵」は、それ自体が非常に面白い「仕掛け」を持った組曲である。まず冒頭で流れるムソルグスキー自身を現すテーマ「プロムナード」――始めのうち、それはただの「リトルネロ」として働くが、最後から3曲目の「地下墓地」で本編の曲の中に入り込む。その様子は、あたかも今まで傍観者として絵を見ていただけのムソルグスキーが、ハルトマンの霊を慰めるために地下墓地に立っているかのようだ。
 そして最後の「キエフの大きな門」。中間部で複雑な和音構成のアルペジオがつながって、再び美しいプロムナードの旋律が演奏される。あの部分を聴く度に、私には、今まさに展覧会場の出口を出て行くムソルグスキーが、次の曲の構想を絵の中から拾い出し、それを形にすることによって、ハルトマンの想い出を固定することの可能性に微笑んでいる姿が想像されるのである。それは「標題音楽」を聴く上での、もっとも幸せな瞬間だった。個人的な感想では、あれほどの感銘を受けた標題音楽は、キャメルの「スノーグース」とマイク・オールドフィールドの「遥かなる地球の歌」だけである。
 今気がついたのだが、私が気に入っている標題音楽は、その出自であるクラシックの中よりも、ロックの分野に偏っているようである。ロックはクラシックに比べて概ね曲が短いため、この分野はそれほど作曲されていない。他に重要なものと言えば、リック・ウェイクマンの「地底探検」、ボ・ハンソンの「指輪物語」くらいか。曲のタイトルに小説などから題材を採った物は他にもあるが、厳密な意味での「標題音楽」はそれほど多くはない。
 そうだ、「展覧会の絵」もまた、ロックになっているのだった。言わずと知れたEL&Pである。「タルカス」に続く3枚目のアルバムだ。ムソルグスキーの原曲に加えて、「賢人」や「ブルース・ヴァリエーション」などの自作曲を挟み込む構成。「プロムナード」や「キエフの大きな門」にも歌が付けられ、その中でグレッグ・レイクが高らかに歌い上げている。

     「僕の命に終わりはなく、僕の死に始まりはない。死とは命そのものなのだから」

 ムソルグスキーが、自分の「展覧会の絵」に込めたハルトマンへの想いそのものではないだろうか。

 言うまでもなく、「展覧会の絵」はモーリス・ラヴェルの編曲によって有名になった。しかしそれ以前にも優れた編曲はいくらでもあるし、ラヴェル以降にも盛んに新しい版が作られている。例えそれが屋上屋を重ねることになろうとも、「今度こそ」の想いとともに新しい解釈を作りたくなる人が後をたたない。この曲はよほど人々の好奇心をくすぐるらしい。
 本の後書きにも書いたが、「展覧会の絵」はピアノ曲として最上級の難易度を持ち、それを弾きこなすにはとてつもない技術を要する。自分にはとても演奏出来る物ではない。また、このようなホームページでMIDIのコーナーまで開いていながら、あれを今一度編曲して先人達に挑戦しようと言う野心もない。オーケストラを使う限り、どこかでラヴェルに似てしまうだろうし、それ以外の楽器がふさわしいかどうか疑問だ。今にして思えば、どうしてリムスキー=コルサコフは出版に関与していながら、編曲を手掛けるところまで行かなかったのだろう。彼がやっていれば、「禿山の一夜」と並んでムソルグスキーの編曲の決定版となっただろうに。
 いずれにせよ、ゲームブックの「展覧会の絵」は、あれもまた、元々のピアノ曲への自分なりの解釈――「編曲」だと思っている。もちろん実際のハルトマンの絵があんな背景を持っているとは思っていないが、そこに込められた想いだけは、真面目に再現したつもりだ。だから、私のゲームブック版の「展覧会の絵」を気に入っていただけたなら、ぜひともオリジナルのピアノ曲や、あまたの編曲された作品群にも耳を傾けて欲しい。ここで私が述べた「仕掛け」の妙技に、如何にして人々が捉えられてきたかがよくわかることだろう。オーケストラやロックだけではない。パイプオルガン、ギター、シンセサイザー、2台のピアノ、ジャズやブラスバンドまである。

 このインターネットと言うメディアの中には、ゲームブックについてのホームページもちゃんと存在している。そこのBBSに書き込みをしたおかげで、昔のことを覚えてくれている人から、たまにメールをいただくこともある。しかし、ゲームブックが再びブームになると言う兆しも、出版の一ジャンルとして定着する様子もない。
 やはりゲームブックは、出版界の中に狂い咲きした徒花だったのだろう。今にして思えばあの騒ぎは何だったのか、本当に短い期間に大量の作品が出ては消えていった。「展覧会の絵」はブームが下り坂になってから出版され、(確かに非常に高く評価していただいた面もあったが)他の作品群とともに忘却の彼方に行こうとしている。あの作品に、沈みかける船を引き上げる力があるわけでもなかったという、ただそれだけのことだ。
 それはそれで良いと思う。もう10数年も経つのだから、今更本音を言っても別にかまうまい。自分が本当にやりたいのは、あくまで「SFの小説」なのである

 ただ時たま思うのだが、「展覧会の絵」を使ってコンピューターゲームを作る事は出来ないものだろうか。もちろん、採算が充分に見合うとしての話だが――。戦闘や経験値によるレベル上げに向くとは思えないからロールプレイングは駄目、やはりサウンドノベルだろう。ムソルグスキーの曲に乗って旅をする主人公、本ではアドベンチャーシートと名付けられたメモ用紙も、コンピューターの上でのフラグなら簡単に処理出来るはずだ。今のコンシューマー機の性能なら充分に可能なはずである。そしてまた、「サウンドノベル」というジャンルには、少なからず将来性があると思う。
 しかしこれは、ただの夢物語に過ぎないだろう。個人の作業で出来る「本」と違い、コンピューターゲームを作るにはどのくらいの手間が掛かるのか。それを考えると、自分のシナリオで何人もの人にリスクを背負わせる勇気は、今の自分にはとてもない。自分でちまちま作ってやろうかとも思ったのだが、HTMLとJAVAを使ってと考えると――不可能ではないが、原曲の打ち込みの手間もあるし、画像も用意しなければならない。やはり、これはそっとしておく方が良いのだろう。

 「展覧会の絵」は一時期のブームの中での夢だった。もしもあなたがあれを手に入れてくれて、少しでも想い出の中に残しておいていただければ――作者としてはこれ以上の喜びはないと思う次第であります。

宇宙暦32年9月9日)

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